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見沼代用水について調べてみた。(後編)

徳川初代将軍 徳川家康が関東平野の開発を命じ・・・・


幕府の関東郡代 伊奈忠治。父忠次の後を継いで
関東平野の治水事業を引き継ぎました。

二代将軍 徳川秀忠になり、八丁堤(堤防)を作り「見沼溜井」が完成しました。


それから約90年後・・・・財政が悪化していた徳川幕府。
8代将軍徳川吉宗の時、幕府は「享保の改革」の一環として
溜井周辺の田畑の水源であった「見沼溜井」そのものの水を抜き、新田開発による年貢の増収を図りました。

地元農村は反対するも強行。
「見沼溜井」の水が抜かれてしまいます。
当然、周辺の田畑の水源がなくなってしまいます。
そこで現在の行田市付近の利根川から農業用水路を見沼の西側 東側を囲うように
引張ってきます。


なんと全長60kmもある大工事。もうロマンですね。


この大事業を任されたのが・・・・・


紀州出身の治水家
「井沢弥惣兵衛」
埼玉に住んで40年。恥ずかしながら私聞いたことありませんでした。

写真:「浮間わいわいねっと」から
徳川吉宗も紀州徳川家の出身でしたよね。


それが「見沼代用水」ってことなんですね。

地元のことがちょっとだけ見えてきて面白いな〜なんて思いました。


年貢を江戸に運ぶ訳ですが・・・・


この時代重い荷物を運ぶのは河川水運。
ふと・・・ちょっと前に上げた川越の新河岸川の舟運「川越夜船」を思い出しました。

江戸に繫る大きな川はこの辺りでは芝川になります。今にも雨がふりそうでした。

もともと芝川は川ですから低地に流れている訳ですよね。
でも見沼代用水は田んぼに水を流さなければならないので高いところを流れているんですって。


写真右を流れるのは見沼代用水。桜の木の左が現在は農地になっています。


写真左を流れるのが、これ多分芝川だと思うんですけど・・・

確かに見沼代用水の方が高台を流れている気がします。これ行けばなんとなく高低差がわかります。


芝川と、見沼代用水の高低差は3m。てことは、船をどこかで3m上げたり、下げたりしなければならないですし、見沼代用水と芝川を結ばなければならないんですよ。
なるほど、そこで「見沼通船堀」を作ったのか〜!


東と・・・

西を・・・

見沼通船堀で繋ぎ

これで⬇︎水を堰き止めたり、流したりして水位を変えていた。船を上げ下げしていた。

「見沼代用水ってなに??」って言うほんのさわりの部分だけですが、実際に行ってみて
ボヤッと見えてきた感じがあります。


江戸時代から、現代まで見沼を守ってきたのは地元の方々。
現在では、さくら回廊日本一の長さを誇る桜の名所に。
いやいや頭が下がります。

【祝】日本一の桜回廊 都心に一番近い里の風景 埼玉県見沼田んぼ 雨の桜回廊
YOUTUBEに動画がたくさんあったのではっておきますね。


次はどこへ行こうかな〜。